1.   2006-11-03 「心霊現象と私」

私には子供の頃から数々の心霊体験があり、1988年マンガ家としてデビューしてまもなく、オリジナル作品を描く一方で、編集部の方にお誘いを受け、体験した事をマンガに描き始めたのですが、当初、一作二作だろうと考えていたのが、いつの間にか何冊かのコミックスにもなり、自分でもビックリ・・・。心霊体験は私にとって、日常的な出来事だったというのを再認識してしまいました。

心霊体験を描くにあたって気をつけているのは、ストーリィを作るように想像で話を作らないという事、体験を体験のまま素直にまとめ、体験した以上に大袈裟にはしないという事。絵に関しても大袈裟にはせず見たものを見たままに描くという事です。そうでないと「ああ私、嘘を描いてるな・・・」と考えてシラけてしまい、やる気がなくなってしまいますから・・・。こんな風にこんな風にこんな風だった〜〜!!! と熱中するからこそ伝わるものは伝わるのだと信じているので・・・。

ちなみに心霊体験談を描いているからといって、やたらと人様に幽霊話をするわけではありません。逆に霊関係の話ばかりする人は嫌いだし、「ここっていますよねぇ〜。」などと同意を求められるのも苦手です。自分からネタを作るために、そういう噂のある怖い場所へ行ったりもしないし、霊を祓ってくれ! なんていう相談にも絶対のりません。
怖いから・・・。

まぁ、それはさておいて、幼い頃からゾーッとする体験があって当たり前の生活をしていた私ですが、1996年引越しをし、一人暮らしに・・・。ところがところが、何だか変なんですね、その部屋・・・。何が変なんだろうと悩みつつ落ちつかずに日々を送り、一ヶ月ほどして実家に戻った時です。寝ていて誰かに指でおでこを突かれ目を覚ましたのに誰もいない。という事があって、「いや〜。久しぶりだな〜こういうの〜。」などと思って突然気がつきました。新居には、引っ越し先には、何もいないんだ !! ・・・という事を。

思えば、生まれ育った家は古い木造で妖怪までいたし(笑)、その後に住んだマンション(現在の実家)は、やたらと出るし、一時期一人暮らししたアパートも幽霊アパートだったしで、私ったら霊の気配がない環境で暮らした事がなかったんです。霊の気配がない・・・という状態を、感覚的に知らなかったんです。だから、まったく何も、な〜んにもいない引越し先の部屋を奇妙で変だ!! と感じてしまったようで、初めて知った静か〜な感じ。こんな所があるなんて考えてもいなかったというか・・・。逆に不安になったりしてたんですね〜。ビックリでした。

だからといって、不気味な目にあわなくなったわけでもなく、外出先から連れて来てしまったり、それに後で気づいたりと、変わらずな生活を送っていた私でしたが、ある時を境にピタリと心霊体験をしなくなったんです。

朝日ソノラマ発行の「ほんとにあった怖い話」という雑誌を読み続けている方はご存知でしょうが、それまで一年に何作かは体験談を描き続けていた私が、2002年〜2005年の間、ひとつも描かなかったのはネタがなかったからなんです。心霊体験が全くない。だから、せっかく編集部からお誘いがあっても、お断りせざるを得ませんでした。

物心ついてからずっと数々あった心霊体験が、なぜ突然なくなったのか。
実はそれには自分でもわからなかった深い事情があったのです。
                                          ( つづく・・・ )


             2.  2006-11-04  「ユカについて」

[ 1.]で書いた、なぜ心霊体験が無くなったのか・・・の前に、友達の話をしなければなりません。気長に読んでいただければ・・・と思います。

その友達の名前は「ユカ」(呼び名)。まだ学生だった頃。美術系の学校に入学してまもなくのデザインの講義中の事でした。やたら複雑な製図作成の課題で、0.1ミリも狂ってはいかんだの、鉛筆は回して使えだの言われ(そうすると同じ太さの線が描けるから)、たまたま隣の席にいた人と私は同時に「はぁ〜〜っ ややこし〜〜っっ」とハモってしまい、顔を見合わせ吹き出しました。それがユカとの出会いです。

その時にはすでにお互い複数の別々の友達もできていたのに、この日以来、ユカと私は趣味も服装の好みもぜんぜん違うのになぜかとても気が合い、いつでも一緒に行動するようになりました。互いの家に泊まりに行き〜の、泊まられ〜の、そのまま一緒に
登校し〜の、また泊まりに行き〜の、といった具合。

くだらない事で喧嘩もよくしました。「恋人になるなら外国人がいーなー」とユカが言い、理由を聞いてみると「外国人の方が心が広いから」と答える。大笑いする私に「だったらどんな人がいいのよっ」と尋ねるので「尊敬できる人」と答えると、「ばっかじゃないのー。だっさ〜い」と言う。二人ともムカムカしながら「今日、泊まりに行くって話、キャンセル! あたし帰る!! 」とさっさと別れる。帰り道、腹は立つものの減りもするので、以前見つけた良さそうなレストランに一人で行くと、店の前でばったりとユカに会う。何となく気まずいのだけど「まーしょーがないかぁ」なんてニヤニヤしながら結局仲直りする。
そんな風でした。

通っていた学校の卒業制作はイラストレーションで、B全サイズ(新聞を広げた大きさ)が5枚の連作か、その5枚にみあう面積のイラスト・枚数は任意、という事で、ユカは
5枚の連作を選び、5枚も違う絵を描くのが面倒だった私は200号というでっかいキャンバス、ドーンと1枚ですまそうと決めました。

卒業制作は合格規準が厳しいので、さすがに誰も呑気に遊んでもいられず、来る日も来る日も描き続ける毎日で、ユカと顔を合わせる事もありませんでした。日々、坦々と作業をこなし、他の生徒よりは早めに完成させた私は、ユカの家へ。

玄関にはお母様が出てこられ、なぜか顔色が悪い。「あの子・・・。あの子に何か言ってやってちょうだい!! 」と、何だかとても困ってるご様子。そこでユカの部屋に行き、ノックしたのだけど応答がない。

「もしも〜し。私だよ〜」と声をかける。ゆっくりとドアが開く。中に入る。・・・・・・絶句。
いや〜〜〜っ。ドえらい事になってました・・・。
                                           ( つづく・・・ )


      3.  2006-11-05  「卒業制作パニック」

一見 内容が脱線しまくりのように見えるでしょうが、(実際してますが;;;) 最終的には
きっと なぜこういった事を書いているのか、ご理解いただけると思います。
でも心霊体験に結びつくのは まだしばらく先の事。
気長に・・・ (ホントに気長に;;;) 読んでいただければ・・・と・・・・。

さて、ユカの部屋は えらい事になってました。


何がって・・・。元々彼女はセンスが良く、和室8畳のその部屋はアジアンなインテリアで統一されていて素敵なのでしたが、この日、私が見たものは、いたる所に散らばる大量の紙と丸めた紙くず、大量の板パネル。オフホワイトだった壁はゴッチャな色の
カラーインクが吹きつけられ、しかもそれは板パネルの形に幾重にも抜かれたもので、明らかに何度となく、壁にパネルを立てかけて、直にエアーブラシ (絵の具やカラーインクを霧状にして吹きつけ絵を描く為の道具) を使った跡で、畳の上にはこれまた直に、子供がよく使うビニールプールが水をたたえておりました。
畳の上ですよ。畳の上・・・。

ユカ本人はどうしているかと言うと、左手に紙を貼ったB全サイズの板パネルを持ち、右手にピストルのような形のエアーブラシのノズルを持ち、顔にはインクの霧を吸い込まないための画材用ガスマスクをつけ、着ているTシャツとジャージはすでに色とりどりになっている。そういう姿で ぬ〜っと立っていました。さらに異様なのは、なぜか畳の上だというのに長靴を履いている事。ひどく憔悴しているようで、青ざめています。

そんな彼女に「何しに来たの。出てって」と言われたけれど、私はかまわず室内に入りました。・・・と、足元の畳がグニャリと凹み、私の靴下がみるみるジットリと塗れていきます。「うわーーーーっっ!!!!! 」と思わず叫ぶと、「だから出てってって言ってるでしょ!!! 邪魔しないで!!! もう提出日まで時間がないのに全然進んでないんだから!!! 」と彼女も叫びました。

私の描いた卒業制作の作品は、既製の油絵用キャンバスにアクリル絵の具を使った物だけど、ユカの作品は、板製のパネルにケント紙を水張りし、カラーインクで描く方法でした。アクリル絵は失敗しても塗り重ねれば何とかごまかしがきくもので、カラー
インクのブラシ絵は一発勝負、失敗すれば1からやり直しするしかないものです。

水張りというのは、板パネルと紙の両方にハケで水を塗り、重ねてから間に空気が入らないように気をつけつつ、バランスよく紙を引っ張りながら、裏面に糊のついた紙テープで四方を接着する方法で、水で塗れた紙は、乾くに従って収縮し、完成するとビシッと張りが出て、その後、どれだけ絵の具を塗ろうと、吹きつけようと、紙がたわんだり
グナグナになったりしないという物なのです。

失敗すると四隅に突っ張ったようなシワができ、公式では使えなくなる上(卒業制作で
そんな物を提出したら水張りもまともにできないのかという事で落とされます)、失敗か
どうかは乾いてみるまでわかりません。おまけに日陰で水平に置き乾かさねばならない代物なのです。ですからそれなりの技術と時間を要します。

話を戻しまして。
ざっと見回しただけでも、その部屋には板パネルが30枚はあったかと思います。
ビショビショの物、ジットリの物、生乾きの物、ほとんど乾いた物。それぞれの段階の
パネルがあります。5枚の絵を完成させる為にこんなに・・・・? と思いました。

「ユカ・・・。もしかして畳の上でビニールプールの水を使いながら、直に水張りしたの?」と聞くと、彼女は「だから時間がないんだってば!!! あたしだって初めは1枚づつ、一階のお風呂場で丁寧にやってた!!! でも、描いても描いても気に入ったの描けなくて、いくらでも必要になって、いちいち下に降りてなんかいられないんだもん!!!」とその場に
へたり込み、「もうだめ・・・。死んだ方がまし・・・。」と、ヨヨヨ・・・・と泣き始めました。

そんなユカの横をふと見ると、なんと畳の隅に一群のキノコが!!!!!
畳の上でジャブジャブ水使って、たぶん一ヶ月以上もそんな事してて、
キノコっすよ!!! キノコ-----っ!!!!

私は頭のどこかで (なんてマンガみたいな奴なんだー ) と思いつつ、とりあえずキノコは無視し、「ちゃんと描けてるのに、自分でダメだって思いつめてるだけなんじゃないの? どんな絵を描いたの?」と、ユカが手に持っていたパネルのイラストレーションを
むりやり見ました。

「こ・・・。これは・・・・。」
その絵は。その絵のデキは・・・。ユカが私を静かに睨みつけます。
                                           ( つづく・・・ )



      4.  2006-11-06  「センス一発 !! 」

ユカの描いた そのイラストレーションは・・・・。そのデキは・・・。

「すっっごくヘタだ。 これ。子供のラクガキみたい。」 ハッ !!! 思わずハッキリと言って
しまった私。手にしたそのパネルには、ダチョウらしきものが描かれているのだけど、
マスキングの大失敗で、切り込みの部分からあっちこっちインクが滲み出し、何が何だかわからない絵になっておりました。それに、そもそも卒業制作でなぜダチョウ? という気もします。

マスキングはエアーブラシなどを使う時に、インクを吹きつけたい部分以外を覆う事で、やり方には様々の種類があります。低粘着のシートを貼ったり、多粘性の液体を塗ったりもする。どちらも後で はがすのだけど、その時になって失敗に気づく事も多く、ユカの場合カッターを使ってシートを切り取っていたので画面に傷がつき、滲んでしまったようでした。

はっきりズバッと言ってしまったにもかかわらず、意外にも彼女は怒りもせずに、説明してくれました。描こうとしていたのは、キリン・ゾウ・ライオン・ダチョウ・フラミンゴ。
この5点をそれぞれデザイン化し、パステルカラーのポップアートにした5連作で、自分は本当はすごくセンスがいいのだと。頭の中のイメージがそのまま出せれば、すごい絵になるのだと。その為に苦しんでいるのだと。

畳にキノコが生え、部屋中グジョグジョで、たぶん長時間ガスマスクをつけていたせいで顔にクッキリと変な凹み線まであるのに、真顔でそんな事を主張している友達を見ると、ぶばっっと吹き出してしまいそうにもなるのだけど、彼女は卒業後すでにデザイン事務所への就職が決まっていたのです。もし卒業できなければ・・・。

仕上がったイメージが私には想像できなかったけれど、試行錯誤を繰り返し次々と描くうちに、いずれスゴイ絵ができるにせよ卒制の提出日はすぐ間近に迫っており、間に合わなければ卒業できないし、間に合ってもヘタクソでは合格できない、合格しなければやはり卒業できません。はっきり言ってかなりの大ピンチです。

そんな事を考えていたら、こっちまで何か不安みたいなものがドッとこみ上げてきました。自分の作品はすでに描き終えた事だし、センス一発勝負の絵など とても手伝えないけれど、水張りなら何とかこなせるので、とにかく一日がかりで貼れるだけ貼りまくり帰る事に。ただし、作業はお風呂場で。畳の上のビニールプールは撤去という事で。

そしてやがて提出・審査の日。ユカは何と〜〜〜〜。

                                           ( つづく・・・)



      5.  2006-11-07  「ユカの才能 」

卒業制作搬入・審査の日。大勢の生徒の作品がすでにフレームに収まり、壁にかけられているのに、何とユカ(呼び名)が来ていません・・・。

何ヶ月もかかって、何十枚も描いて、その結果が先日私が見た状態です。あれから
たったの数日で何がどう変わるというのでしょう。結局思うようにできず、来る事さえ
やめてしまったのではないだろうか・・・。どうなってしまうんだ---っとハラハラして待ち、もう審査が始まってしまう !!! という時になってやっと、息を切らせたユカがやって
来ました。

「何だ。今頃来て。君の絵、もう場所ないから、その辺に並べて。」と冷たく言われて
います。彼女が取り出したイラストレーションを見て、私は気持ちが吹っ飛びました。
すごい!! 素晴らしい!!! それしか頭に浮かびません。ユカは あの時 言っていたはず、
自分は本当はすごくセンスが良いのだと。頭の中のイメージがそのまま出せれば、
すごい絵になるのだと。

本当にその通りでした。キリン・ゾウ・ライオン・ダチョウ・フラミンゴ。その五つのモチーフが見事にデザイン化された5連作になっています。調和の取れた柔らかな美しい色彩、無駄のない緊張感のある画面構成。シャープでいて どことなく暖かな感じ。あれ程ひどかったマスキング技術も完璧です。すごい!! 素晴らしい!!! 鳥肌が立ちました。

もう何年もユカと付き合っているのに、これほど才能がある人間なんだという事を、何で今まで気づかなかったのだろう。二人で徹夜しながら何度となく一緒に課題をこなしても来たのに、彼女の素質、センスへのこだわり、あきらめずにイメージを追及する
底力、それらを何ひとつ全く理解できていなかった自分が恥ずかしい・・・。

「すごいね。よく間に合ったね。ホントにすごいよ。」と言うと、ユカは「この間わざわざ家まで来て、はっきりヘタって言ってくれたじゃん。あれで逆に客観的になれたって言うか、冷静になれたんだよね。でも ついさっきまで描いてて。できたてホヤホヤー。」と笑っていました。ユカのこういうサッパリした性格が私はとても好きです。

そのイラストレーション5連作は、当然の事、審査の先生方全員の高い評価を受けました。ちなみに私の作品は、「君の絵は、シュールで よくわからない。でも、とにかく迫力あるし・・・・という事で合格にしましょう。」という評価。ははは。何しろ200号のキャンバスで提出したのは私だけでしたからね・・・。卒製はB全5枚か、それに匹敵する面積である事・3枚に分けても2枚でも1枚で描いても可。というわけで、[一番でかいのを1枚]を選択しておいて良かった。それなりに、作戦成功の結果でした。(笑)

この時はまだ、自分が将来オカルト系のマンガ家になろうとは夢にも思ってなかった私なのに、その作品の内容は、爬虫類の化け物と人骨と入り組んだ機械とをできるだけリアルに合体させた物で、今にして思えばかなりホラー入ってたような・・・。
オカルトマンガ家には、なるべくしてなったのかもしれません・・・。

ユカの5連作は、後日、日本イラストレーター協会が主催するコンペで賞を取り、
その結果と共に、彼女のグラフィック・デザイナーとしての人生が始まり、
私はマンガ家を目指し、出版社への投稿作品を描き始めたのです。
                                           ( つづく・・・ )


      6.  2006-11-08  「衝撃の知らせ」

卒業後もユカとは たびたび会っていました。グラフィック・デザイナーとなった彼女の
作品は学生の頃よりもさらにセンスアップしています。

「すごいね〜。イラストレーションって。たった1枚の絵に、イメージも伝えたい事も全部
入ってるんだもんね。」と絵を見せてもらいながら言うと、ユカは「あたしは逆に、マンガみたいにゼロから物語を作って、それをたくさんの枚数で面白くまとめていくのって
スゴイと思うけどな。」と笑います。

「う〜ん。そうできればいいんだけどね〜。最近 何描いてるのかさえ よくわからなくなってきたよ・・・・。」この頃、マンガ家を目指していた私は、描いても描いても思うようにいかず苦しんでいました。「この間 描いてたの、あれ投稿したんでしょ? どうだったの? 」「ぜんぜんダメだった。」「でも、あたしは好き。」彼女はいつもそれとなく励ましてくれます。

「ところで、ウチの事務所、今ちょっと人手がなくて困ってるんだけど、ポスターのデザイン頼めないかな。って言ってもただのラフ画でいいの。今度のコンペに必要なんだ。描いてくれないかなー。」

当時、自分の作品を描く事に集中したくてマンガ家の先生(恩師)のアシスタントを辞めた私に、ユカはこうして時々仕事を回してくれます。マンガ雑誌のカット描きなどと比べ、デザイン関係の仕事は稿料が格段に良いのです。でも、一応デザインの基礎は学んだ人間だからとはいえ、まるで畑の違う私に依頼するほど、人手のない事務所ではないのです。私の置かれている状況を知っていて、なに気に応援してくれているのです。しかも、ラフ画なら時間もそうかからず、作品描きの邪魔にもならないだろう・・・と。ユカの気持ちがとても嬉しかった。

私はどちらかといえばいつも元気な人間なのですが、先行きどうなるのかもわからない日々が長く続くと、さすがに凹んできます。そんなある日、私のあまりの元気の無さにユカが怒り出しました。

「あのさー。無理に ふつーの少女マンガ家になろうと思うのが間違ってんじゃないの? 何で無理矢理 雑誌に自分を合わせようとするの? 恋愛物なんか昔から興味もない
くせに何で描くのよ? イラストもマンガも、カ-----っと頭が熱くなるほど熱中しなきゃ、出てきたものが人に伝わるわけないじゃん!!! 描きたくもないもの描いて熱くなれるわけないじゃん!!! 何で すっっごく描きたいものを描かないのよ!!! ばっかじゃないの!!!! 」
そう言われました。私の目からウロコがボロボロと落ちていきます。

それまでは、雑誌を決めてから作品を描いていた私でしたが、彼女の言葉をきっかけに、まず描きたいものを思いっ切り描いてから投稿先を探すやり方に変えてみました。すると、あっという間にデビューが決まったのです。しかもほぼ同時に、ぜんぜん別の
出版社の 2つの雑誌からでした。

ユカは自分の事のように喜んでくれて、お祝いにと、彼女がデザインした私の名詞を作ってくれました。1000枚も!!! 「こ・・・こんなに使わないよ〜〜。いくらなんでも〜〜。」と困る私にユカは言います。「全部なくなるほど仕事してっ!!! そしたらまた作るから!!! 」
まさかそのような事になるわけがないけれど、嬉しくて嬉しくて泣きそうになりました。

その後、私の描いた心霊体験マンガの中に、ユカが何度も登場しています。骸骨に
とり憑かれた(?)私を介抱していたり、私が住んでいたアパートに遊びに来て、窓に霊を見て叫んでいたり、知らない道を二人で長時間さまよって怖い目に遭ったり、それらは全て彼女です。描かれるたびに、「内容はともかく あたしはこんなにダサくない」と文句を言ってはいましたが、ちょっと照れて、嬉しそうでした。

それからユカは恋をし、結婚をし、子供も生まれ、デザイナーとして主婦として母として忙しく、私はマンガ描きで忙しく、ごくたまに会えるだけになっていきました。それでも
幸せでいてくれるだろうと思っていました。

でも ある時、電話が かかってきたのです。その電話は・・・・・。

                                           ( つづく・・・)


      7.  2006-11-09  「危篤 そして・・・」

その電話はユカ(呼び名)のご主人からのものでした。

「お久しぶりです。お元気ですか。」声の調子で、瞬間的に良くないものを感じ取り、
緊張が走ります。「実は、〇〇(ユカの本名)は入院中なんですが、だいぶ具合が悪くて、その・・・今・・・危篤状態で・・・・。」

危篤・・・。ユカが危篤!!?!!?? 何それ!!!! 何なのそれ!!!! 危篤・・・。 キ・・・ト・・・ク!!!??? 頭が真っ白になりました。ご主人はこれまでの病状について話してくれています。

「それで、そちらには知らせないで・・・と本人に言われていたので、ずっと黙っていたんですが、今、こんな状態になって、それでいいのかって・・・。二人ともすごく仲が良かったから、本当に知らせないままで、いいんだろうかって。そう思ってボクの一存でご連絡したんです・・・。 でも、チエリさんにも お仕事やご都合があるでしょうから、お見舞いに来てほしいとかではないんです。ただ、このまま 何もお知らせしないでいると
ボク自身 後悔しそうだったので・・・。」

「行きます!!! お見舞いさせてください!!! 病院、どこですか。」私はなるべく急いで その病院に向かいました。ユカとは しばらく連絡もしていなかったし、会ってもいなかった。
でも、幸せに充実した日々をすごしているだろうと思っていました。私たちは今、働き盛りで忙しいけれど、いずれユカも私も歳をとってお婆さんになって、「あの頃ってサ〜。」なんて笑いながら のんびり話をするはずだと信じていました。
それが こんな事になるなんて!!!!

ここまで読んでくださった方には わかっていただけると思いますが、ユカは明るく
いつも前向きで、性格がとても良いのです。人に嬉しい事があると一緒に喜び、人のために本気で腹を立て、率直に意見を言える人間なのです。長い付き合いの中で、人の悪口を言ったり、皮肉を言ったり、意地の悪い考え方をしたり、そういう姿は一度も見た事がありません。だから誰からも好かれ、公私共に親しい人は多くいました。ですから、私にとっては一番の友達でも、彼女にとって一番でいようと思った事はないのです。友達でいてくれるだけで、それだけで良かったのです。

病院の個室でユカは静かに横になっていました。ご家族もそばにいらしたので、私は「〇〇・・・。」と彼女の本名を呼びました。ユカという名は私が付けた名で、私以外に
彼女をそう呼ぶ人はいませんから、ご家族に失礼だと思ったのです。「〇〇・・・。」何度呼びかけても反応がありません。看護士は「もう意識がないのです。」と説明します。

その時、痩せ細ったユカの指から結婚指輪が落ちました。私は拾って彼女の指に戻しましたが、その手に触れた時、抑えていた感情がどどっと込み上げてきて涙があふれ、「ユカ・・・。」とつい呼んでしまったのです。

そのとたん、私という人間が彼女にとって、どれほど重要だったかを思い知りました。
意識がないはずのユカが手を動かし、何ともいえない表情を浮かべたのです。
(ああ!!!! 来てくれたんだ!!! 来てくれたんだね!!! ) という彼女の気持ちが伝わってきました。「ユカ---っ」 私が[ユカ] と呼ぶたびに、彼女は反応します。
もう、どうにも涙が止まりません。

しばらくして、看護士にうながされ「また来るからね」と言い残し退室しました。病室で、患者とご家族の前で涙してしまった事をお詫びして病院の外へ・・・。でもまだ涙が止まりません。

私は気を落ち着けようと、道端のベンチに腰掛けました。その時ふと何か気配を感じ、見ると私の隣にユカが座っているのです。

学生時代、私たち二人は よく、知らない街を歩くのが好きでした。行き当たりばったりで素敵なカフェを見つけたり、意外な発見をしたり・・・。服装までその頃のままの彼女が楽しそうに笑って隣に座っているのです。

病室で私の声を聞いて昔に帰り、気持ちだけがついて来てしまったのだろうか・・・。
それとも、悲しすぎて幻覚を見ているのだろうか・・・。判断がつきません。
「ここにいちゃいけないよ。病室に戻らないとだめだよ。」と言うと、ユカは消えました。

私はそのまま帰る気がせず、近くのカフェに入ったのですが、オーダーした物は「バナナジュースにパンケーキ」、どちらも私の好きな物ではありません。考えてみると、学生時代ユカがよく食べていた物です。「甘い物に甘い飲み物を頼むなんて、どうかと思うよ。」と言う私に「うるさ〜い。だって好きなんだも〜ん。」と笑っていた彼女。

テーブルに置かれたそれらを食べたのですが、バナナジュースもパンケーキも、全く味がしません。紙を食べるように無味なのです。これは ユカが私を通して味わっているのだろうか・・・と思いました。そこで、食べ終わったら病室に帰るように言い、しばらくしてコーヒーを頼み、味がするのを確認して家に帰りました。

自宅に戻ったとたん、電話が鳴り、出てみるとユカのご主人からでした。
「〇〇は、チエリさんが帰られて、1分後ぐらいに亡くなりました。きっと、あなたが来るのを待っていたんだと思います。」と・・・・。

それは ちょうど、ベンチでユカを見た頃でした。ユカは亡くなった瞬間、楽しかった昔に帰り、昔のように私と街を歩いているつもりだったのでしょう。大好きだったバナナ
ジュースを飲み、パンケーキを食べたのでしょう。

受話器を置き、私は泣きました。自分がそんな声を出すのかと驚くような声が、口から鼻から もれていきます。その場に四つんばいになり、泣き、立ち上がる事もできません。自分の中のもう一人の冷静な自分が言います。(明日は お通夜なのだから泣き止め。泣き腫らした顔では出掛けられない。) と、でもだめです。涙も声も止まりません。

ユカとの思い出は語りつくせないほどあり、それらが次々と頭に浮かびます。その晩、私は何も食べず、一睡もせず、ただただ泣く事しかできませんでした。

                                          ( つづく・・・ )



      8.  2006-11-10  「死と月日」

2001年 秋の終わり、友達のユカは死にました。
葬儀は とても彼女らしくハイセンスで、参列する人々は後を絶ちません。

私は 酷い喪失感に苛まれ、この後も3日ほど食事ができず、眠れずにすごしました。
一週間たっても、ユカを思い出すたびに息が切れ、涙と共に体がふるえます。人に話せば気が楽になるかもしれないと、別の友人たちに話してもみましたが、どんな慰めの言葉も効果がありません。私はユカについては考えまいと必死になりました。

一ヶ月たち、どうやら平静を取り戻し、郵便物の整理をしていた時、
[元気〜? 最近会ってないよね〜。今度ゆっくり一緒に食事でもしよう〜。]
というユカからのハガキを見つけました。

そういう彼女の文字を見たとたん、再びどっと涙がこぼれます。私は そのハガキを引き出しの奥に乱暴にしまい込みました。涙が止まらず、ふるえ、息も切れています。
いつまでも、どうなってるんだ私は!!! しっかりしろ!!! そう思いました。

これまでにも、身近な人の死に立ちあった事はあるし、辛い事だっていくらもあった。
私はどちらかといえば立ち直りの早い方で、いつまでも暗い感情を引きずるような人間ではないはずだ・・・と。

プライベートで何があろうと マンガの仕事は待ってはくれません。日々、創作作品を描き続けては いたものの、気がつくと、いつの間にか心霊体験というものが皆無になっておりました。この時は、[
1.]で書いたように、1996年以来 住んでいるマンションの部屋が、霊の気配というものが全くない部屋だったので、そのせいで体験も減ったのだろうと思っていたのです。

これまで、朝日ソノラマの[ほんとにあった怖い話]という心霊体験マンガ雑誌に関しては、一度も依頼をお断りした事がなかった私なのに、初めて「ネタがないんです。すみません。」と言わざるを得ない状況になりました。せめて過去の体験を思い出して まとめてみようかと机に向うと、頭が真っ白になり、何ひとつ思い出せもしないのです。

そして1年、2年、とうとう4年の月日が・・・・。

2005年 秋、友人と街を歩いていて、突然ぞーっとした感覚がありました。これは作品に起こせるほどの内容ではなかったのですが、なぜだか霊感(?)みたいなものが戻って来たようでした。

2006年、私は再び体験マンガを描きました。長い間、見捨てずに待ってくださっていた編集部の方には心から感謝しています。でもまた なぜ突然始まったのだろう・・・と思い、封印していた引き出しを開け、ユカのハガキを手に 読んでみたのです。
涙せず なつかしく思い出されます。

あれこれと、たくさんの思い出をひとつづつ思い出してみました。涙が出ません。すごくなつかしくて、楽しい事ばかり。思い出し笑いさえ出てきます。そうして初めて気がつきました。

心霊体験マンガを描くという事は、死を意識する事でもあり、それはユカの死を思い出す事にもつながっていたのです。私は彼女の死を受け入れられず、傷ついて、忘れよう忘れようとばかりしていたので、心を塞いでいたのです。何も感じないですむように、無意識のうちに、死や霊に関するもの一切合切を認めなくなっていたのだと思います。

友達の[死]という悲しみから立ち直るのに、まさか自分が4年もかかろうとは考えても
いなかったけれど、時の流れは素晴らしいですね。苦痛だけを取り除き、思い出を残してくれました。

普通は心霊体験などない方が精神的に良いはずでしょうけど、私の場合はあった方が健康的なようです。今ではユカの死をしっかりと受けとめています。彼女との思い出は色々な事全部 一生忘れません。

今後また、何か怪しくも恐ろしげな体験談を描く機会があると思います。その時には
ぜひ読んでみてください。これからも どうぞヨロシク (^-^)


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